香林寺の略縁起

香林寺は大永5年(1525)、川崎市多摩区、仙谷山寿福寺の第七世・南樹法泉和尚によって開山された禅宗の寺で、臨済宗建長寺派に属している。
開山の折には観音堂(二間~三間)があり、霊験あらたかな身代り観音が祀られ香林坊と称していたことが文禄3年(1594)の水帳に記されている。後、慶長年間(1596年から)に南嶺山香林寺という山号、寺号を称するようになった。

ご本尊十一面観世音の由来

開山時の
十一面観世音菩薩
十一面観世音菩薩の
木版刷略縁起
御本尊十一面観世音菩薩については縁起が木版となって流布されており、現在も木版印刷された略縁起が檀家から発見寄贈されて、香林寺に残っている。この略縁起に、御本尊は宝亀7年(776)弘法大師の御作であることが記されている。 この御本尊は因幡国高草郡清水長者に授けられ、長者は家の守り本尊として深く信心していたということである。
略縁起によると、文明元年(1469)霜月5日の夜、長者の家に盗賊が忍び入り、長者は盗賊と立合い顔に2ケ所の疵を負った。しかし、一心に観世音の御名を唱え念じ奉れば盗賊は一人残らず退散した。余りの有難さに観音様の御尊面を拝し奉ると、長者の負った疵はなくなり、御尊面に二ヶ所の疵があったとある。
このことにより、身代り観音と称され、広く人々に信仰されるようになった。この略縁起の内容は、「因幡誌」(因幡の国の地誌書・鳥取県立博物館蔵)にも記されていることが平成20年(2008)確認された。この「因幡誌」によると、略縁起の内容がそのまま記されていることに加え、著者安倍恭庵(鳥取藩侍医)が寛政8年(1796)自ら香林寺を訪れ、御本尊を参拝したことや、因幡国からの伝来の由来が記されていた。それによると、御本尊は回国の僧(全国を行脚する修行僧)の遺品であり、宝暦14年(1764)の修理の際に胎内から因幡国清水長者の身代りとなった観音様である旨が記された文書が発見されたことなど、香林寺には伝えられていない御本尊の新たな由来が明らかとなった。永年の時を経て、御本尊の由緒が新たに発見されたことは、信仰による深い縁が感じられる。当山は文政13年(1830)に火災に遭い残念なことにお姿を失ってしまった。幸い、この尊像の木版印刷のお姿が発見され、当山にお祀りしてある。香林寺の現在の御本尊は行基菩薩御作で、焼失した身代り観音の慈悲深いお心を受け継いだ霊験あらたかな観音像である。

本堂再建

聖徳太子像
(高村光雲作)
大正13年に建立された
香林寺旧本堂(昭和45年頃撮)
文政13年の火災のあと、本堂を現在の場所に建築したが、大正12年(1923)の関東大震災で本堂がゆがみ、庫裡は全壊してしまった。しかし翌13年に再建、昭和46年(1971)まで檀信徒の信仰の場、集いの場として大きな役割を果たしてきた。

最勝散

最勝散の版木
香林寺には、江戸時代後期から観世音御夢想最勝散という薬が作られていて、その効能書きを刻んだ木版が残されている。
最勝散は観世音菩薩の功徳により神奇妙用記するに暇(いとま)なしとある。